挿し写真: 小清水原生花園にて 4月8日
ココの処、根を詰めて?作業を行なっていたので、ちょっと、ひと休み。
冬の名残りの、緒法尽(オホーツク)海の、様子
ほぼ知床半島より上!の海岸線には、名残り流氷は残っているだけで、
海開け!マジカである
斜里図書館(町内で、イチバン!高い所!?)からの、斜里岳
まだまだ?岳の上は、真っ白であるが、確かに!春は近づいて居る
嘉永7 (1855)年の、日本地図
ほんの?約150年前!? の、北海道の「地図」である
当時は、海沿いを移動して、地名を連ねただけ!? で、内陸までは入っていない!
その為、いま!世間のヒトが知っている、北海道の「地図」とは程遠い?カタチをしている
然し、それが判れば、事が足りており、「内陸には、山がある」程度の知識があれば好かった
その後、北海道開発を目指した!ので、正確な「地図」が必要となった...
幌の旗!付き、北海道の地図
※地図の原本は、NPO)日本自治アカデミー Japan Autonomous Academy 作
以前から、感じていた違和感。
何で?上川地方や、オホーツク(元網走)地方は、端から端まで、200km!? もある!
っていう、疑問
上川地方は、天塩川沿いに繫がっている
オホーツク地方は、オホーツク海沿い?に、繋がっている...
いま!の時代は、道路沿いに繋がっている事を基本に考える
それは、上記の「嘉永7 (1855)年の、日本地図」の、イメージの名残り?を残したまま、
いまの、総合振興局の区分を行なうから、変!? なまま... そう思っている
Do !繋がっているのか?或いは、Do!繋げYoh!と考えて居るのか?
それに拠って、地図の描き方も変わって来る